”なぜ「仲間はずれ」はつくられる?その2” 2007.2.1(thu)

 先生が「仲間はずれ」をつくっている。
これは、よくありますね。教育に携わる者として、戒めなければならないことです。即ち、「キミはまったくノロマだね」とか、「忘れ物大王だね」など
という教師の言葉をきっかけにあだ名がつけられ、「先生が言うんだから、ぼくらだって言ってもいいんだ」という感覚になって、みんなで「仲間はずれ」を
つくってしまうんですね。  「小さな失敗」をはやしたてる。
誰かが間違って何かをしてしまったときに、それを見つけた子が、「いーけなんだ、いけないんだ!」とはやしたて、それに対して周りの子供たちも同調
したりすることがあります。小さな失敗に対して、それを許す「まあ、いいか」という寛容さをクラスにつくっておかないと、仲間はずれが容易に始まって
しまう危険性があります。(参照「別冊PHP」2007.2)



 

”なぜ「仲間はずれ」はつくられる?その3” 2007.2.2(fri)
これからは、別冊PHPから離れて、私のこれまでの経験から思うことです。
 子ども達のストレスから「仲間はずれ」が生まれる。
 子ども達のストレスが、「仲間はずれ」に限らず、「いじめ」を産んでいると思います。高学歴社会に生きる現在の子ども達は、一部に幼稚園の頃から、
お受験の為の英才教育が始まり、幼児期から「学力」という重荷を背負わされます。自分が最も愛するご両親から、ご両親が果たせなかった夢を自分に
託された期待、あるいは、その子を取り巻く周囲の期待、知らず知らずのうちにその波の中に飲み込まれ、必死にそれに応えようとしています。福原愛
ちゃんや宮里藍ちゃん、真央ちゃん達だけは、「学力」ではなくその分野での「トップ」という重荷を背負ってきたんでしょうね。でも、彼女、彼らは、それを
ストレスと感じながらも、それを克服する努力で(いや、かなりのストレスだったかもしれません)それを勝ち取っています。しかしながら、普通の子ども達
は、その「学力」という重荷が真ん丸だった心の風船にのしかかってくれば、たとえそれが自分が求めたものであっても、子ども達の心にはストレスになり、
心の風船が横っちょに飛び出して膨れ上がり、いずれはそのはけ口を求めてくるんですね。中には、スポーツ少年団のコーチや監督から浴びせられる
罵声からストレスになったケースもあります。そのはけ口が、「いじめ」となって出る場合が多いと思います。



”「わかる」とはどういうことか。その1” 2007.2.19(mon)
 同じタイトルの本が出ています。脳の高次機能障害の臨床医・山鳥重氏が書かれた本で、ちくま新書から出ています。3年前(だったかな?)、専修大学の
指定校推薦の課題図書で、生徒からその解説を頼まれて読んだ本です。大変興味深い本で、その本も参照・引用させて頂きますが、今回は皆様との問答で
このテーマを考えてみたいと思います。まずは、みなさん、どんな時に、「分かった」と感じますか?ここで一つの実験をしてみましょう?みなさんは、下の写真
は何の写真と思いますか?

 

 

”「わかる」とはどういうことか。その2” 2007.2.21(wed)
 人はこれまでの視覚経験を経て、一つの物体の様々な角度から見た、記憶にある形=心像と照らし合わせ、それが何であるか思いを巡らせる。そうした現象、
その記憶心象と一致したことが、「わかった」ことの一つだそうです。その心象の数(それは学習だと私は思いますが)多ければ多いほど、「わかる」(この場合、
「識別できた」)ことに達するんですね。どうでしょう?「わからなかった」方も下の写真を見ると、なるほど!と「わかった」と思います。しかも、その物体を、みな
さんは「マジック」という、共通の言葉=記号として認識できたと思います。これが「わかる」、即ち「分かる」ことの一つのようです。

 山鳥氏は著書で、前述した1)全体像が「わかる」以外に、2)整理すると「わかる」、3)筋が通ると「わかる」、4)空間関係が「わかる」、5)仕組みが「わかる」、
6)規則が合えば「わかる」を挙げられております。
 さて、山鳥氏は著書でこんな記述をしております。
 「散歩中の途中で行き過ぎる道ばたの草むらを想像してみて下さい。ここには何種類もの草たちが生い茂っています。草の形はそれぞれ独特で個性いっぱい
です。しかし、草を知らない人、草に興味がない人を見ると、草は見えてはいますが(草と土、石ころの区別は認識して−「分かって」ーいますが、ヒゲグマ注)、
それぞれの草がそれぞれ違う形をしていることには気がつきません(それぞれ区別できません)。少し注意を集めてしばらく眺めていると、それぞれ形が違うこと
が見えてきます。そうすると、例えばクローバーに気がつくでしょう。あ、これクローバーだ、と、知っていることにうれしくなるかもしれません。区別し、更に固定で
きたのです。今度はその横にある似たような、しかし明らかに別の形の草があるのに気がつくでしょう。しかし、自分がよく見たことのある草(知っている草)では
ありません。区別はできても、固定できないのです。」(一部編集してあります。)
 即ち、草という名前が認識された時点で、まずは他のもの(例えば、土や石)と「分かつ」ことができたんですね。次に、クローバーという名前の花が認識できた
時点で、更に他の草と「分かつ」ことができ、固定化されたんです(「クローバー」という草の記憶心像が心の中に存在することが前提ですが)。このように、まっつ
さんおっしゃる通り、認識には、草というものを土や石か
ら区別できる位の大まかな段階から、クローバーを他の草と区別し、固定できる位の段階、クローバーの変種に気づく段階、更には、新種の草を発見するくらい
の専門家の段階と、様々あるんですね。

 

”「わかる」とはどういうことか。その3” 2007.2.25(sun)
名前をつけるというのは、それだけでは捕まえ難い記憶心像に音声記号を貼り付け、安定させる働きです。メモ用紙や画集、辞書や新聞に、葉書や本に使われ
ている、大きさも形も厚み、色合いも、弾力も違う視覚心像の素材、それは硬いものもあれば、やわらかいもの、ざらついたものとその触覚心像も様々であり、
辞書をめくる音とカードを繰る音ではずいぶん違うように、聴覚心像も決して一定ではないその素材に、「カミ」(紙)という名前をつけてひとつにまとめた記号音、
これは大変な発明ですね。インドのビシュヌ神の胸毛をかたどったという卍(ご存知の通り、ナチスのハーケンクロイツはそれを左右にひっくり返したものですが)、
郵政省の前身・逓信省のテイシンのテを記号化した〒も記号で、名前と同じ、取り決め、約束事ですね。
卍や〒はそれぞれお寺や郵便局を表す視覚性の記号ですが、その「寺」や「郵便局」は、名前、即ち聴覚性の記号、音声記号(記号音)ですね。日本人は、約120
の音韻をもつ日本語=言語音で、お互いの様々な記憶心像を呼び戻し、意思疎通をはかっております。メ、ペ、ベを聞き分け、同じ「メ」でも、その場の話の内容か
ら、「目」と「眼」、「目」を聞き分け、お互いの話が「わかる」んですね。さらに、歯痛で下あごがはれ上がった状態のAさんが、「アカトンボ」と言っても、無口なBさんが
ちょっと口をあけて、「アカトンボ」とか細く言っても、また、風邪をひいているCさんが大きなマスクを掛けてまま、「アカトンボ」と言っても、当然物理的な音波の形とし
てはその大きさ、その高さ、ノイズのかぶり方、その速度などかなり違っているはずですが、心の中にしっかりと記憶心像が作られているため、それを同じ音として固
定し、記憶心像と照らし合わせ、「わかる」んですね。
山鳥氏は、著書でこう述べています。おそらく言葉のそもそもの発生契機は集団に危険を知らせるとか、集団を移動させるとか、集団を集めるなど、大事な情報を多
くの仲間に早く、同時に知らせ、必要な行動を起こさせるためのものだったのではないでしょうか、と。そして、言葉は社会の約束事として、カミ、エンピツなど、自分の
外の世界に実存する客体を記号化し、ハシレ!ニゲロ!など、運動のあるパターンを記号化し、さらにハイ!イヤ!など、心の内在状態をも記号化してきました。
言葉を手に入れたことで、私達はすべての心理現象を記号に変換(言語化)して、他人と交流する、という大変な能力を手に入れたのですね。さて、わかる、わかった
という経験の第一歩は、まずなんといってもこの言語体験です。ある音韻パターンと一定の記憶心像が結びついていれば、その音韻パターンを受け取った時、心には
その記憶心像が喚起されます。つまり、わかるためには、自分の中にも相手と同じ心像を喚起する必要があります。そして、相手と同じ心像を喚起するためには、そ
の手段である言葉と言葉の意味を正しく(言い換えれば、社会の約束通りに)覚えておく必要があります。即ち、「わかる」は言葉の記憶から始まります。そして、言葉
の記憶とは、名前の記憶ではなく、その名前の「意味の記憶」ですね。(参照「わかるとはどういうことか」ちくま新書)