”「わかる」とはどういうことか。その4” 2007.3.10(sat)
前回までの話で「わかる」ためのは、言葉の記憶、即ち、名前の記憶ではなく、その名前の「意味の記憶」が必要である、と述べました。
その記憶にはまず、種としての記憶(遺伝する記憶、DNAに書き込まれた記憶)として、反射と情動反応があります。反射は中学2年生の
理科(第2分野)に出てきますので、お分かりだと思います。情動反応とは、悲しくなると泣けてきたり、嬉しくなると笑えてくる、その反応です。
更に、記憶には、意識に呼び出しやすい記憶と、意識に呼び出しにくい記憶があります。前者は、心像化できる記憶で、うまくいけば絵や言葉
に表現できる、つまり仲間に伝えることができる、陳述性記憶と呼ばれる記憶で、出来事の記憶と意味の記憶の二つがあります。後者は、
九九八十一(ククハチジュウイチ)のように、「カケル」(同じ数を何回かタス)という作業を省略してそのやり方を覚えている、手と体が覚えている、
心像化しにくい、手続き記憶と呼ばれる記憶です。
「わかる」ための土台となる様々な記憶の中の、「意識に呼び出しやすい記憶」について。その一つの出来事の記憶は、出来事、場所、時間、
その時の感情、その時の考えなど、様々な情報の複合体です。出来事を思い出す時は、これらの情報が渾然一体となって思い出され、出来事の
流れだけがビデオの再生のように心像化されるのではありません。大脳には複雑な出来事をまとめて心像化する働きがあるそうです。二つ目は
意味の記憶で、漢字や仮名、知識、人物像など、何度も繰り返すことで少しずつ作り上げていく(これは大事なことです!)事柄の記憶と、事柄と
事柄の関係、人間関係、空間的位置関係などの関係の意味、カクレル、ハシル、アルクなどの動詞の概念理解につながる変化の概念の記憶が
あります。人間はある人の人物像の形成のように、出来事の記憶(1回限り)→類似部分の繰り返し(繰り返しの出会い)→意味の記憶(人物像)の
形成とい流れで、経験を蓄積していきます。また、人間は九九のように、出来事の記憶→同じ出来事(行為)の繰り返し→手順の記憶という流れで
経験を蓄積していきます。
こうした記憶、中でも意味記憶や手順の記憶を武器に我々は新しい事実、新しい経験に立ち向かう体制を整えます。記憶という土台ができあがって、
初めてわかるとか、わからないとかという心理的な反応(感情)が生まれます。そもそも記憶がなければ、わかるとかわからないという反応自体出現
しようがないんですね。ですから、勉強はまずは教科書で、基礎・原理を納得いくまでとことん理解し、しっかりと記憶して、その土台作りをきちんとや
りましょう!その上で、その土台をより強固なものにするために、問題を解いていくんですね。頑張りましょう!(完)
(参照「わかるとはどういうことか」ちくま新書)


 

”「世間」考1” 2007.3.13(tue)
日本の大人は、みんな「世間」に縛られている、と言われます。「世間」という人間関係の組み方は、西欧社会に存在しない日本独特のもののようです。
「世間」には、そこで生き、そこから爪弾きにされないために、守らなければならないいくつかの掟があると言われます。それは、1.贈与・互酬関係を守
ること、2.身分をわきまえること、3.他人に配慮することなどと言われます。これからまた暫く、こんな「世間」がもたらす様々な心理現象について語り
合ってみたいと思います。まずは、その掟についてお話させて下さい。1の「贈与・互酬関係」とは、お歳暮やお中元などの付け届け、お返しのことです。
西欧社会では、ものをもらっても「その場限り」のことで、誰も「お返し」は考えません。2は、お互い初対面の人がする「名刺交換」のことを考えて下さい。
また、英語圏では、二人称はYou一つが、日本では、「貴殿」「あなた」「きみ」「お前」「てめえ」など無数あり、自分や相手の「身分」によって、その使い分
けに「気を使って」いなければならないですね。3は、「世間の目」、「世間並み」、「世間体」の言葉の存在からお分かりのように、「世間」では、「個人の時
間」ではなく、「共通の時間」を生きていますので、常に「他人に配慮」しなければならないんですね。西欧社会では、個人の時間を生きることが基本であり、
神との関係で物事を決めることはあっても、「世間体」で決めることはなく、神の視点からの評価が大事です。
「世間」が生み出す様々な病理。−人前に出ると顔が赤くなる「赤面恐怖症」や、自分の視線が他人にどう映るのか気になる「自己視線恐怖症」などあり、
これは、家族などごく親しい関係や、全く逆の関係のない通りすがりの人々との関係では起きません。それらの中間的な場面で生じると言われ、その中間
的な場面が、まさに「世間」のことで、前回述べました通り、常に「他人への配慮」が求められ、それが強迫的に表れると、対人恐怖症として表れます。さら
に、「世間」の中で困るのは、相手がたとえ嫌いであっても、相手との対や葛藤を表に出してはならないことです。私たちはこの「世間」を離れて生きていけ
ないと思っていますので、それを表に出せないのです。それが悲劇的な形で現れたのが、99年に東京都文京区で起きた「お受験殺人事件」です。子供と
同じ幼稚園に通わせているお母さん同士がグループをつくっていましたが、あるお母さんが、他のお母さんを嫌いだと言えなくしているうちに、心理的葛藤
がつのり、相手の子供を殺せばもう付き合わずにすむと考えて、子供を殺害し、自分の実家(なんと!私の住む静岡県内ですが)の庭に埋めたという事件
です。当時この事件が報道されると、いわゆる「公園」デビューを巡る人間関係に苦しんでいるお母さんたちから。同情の声がマスコミに多く寄せられました。
これは、みんながこの「世間」で苦しんでいることを示しています。
(引用・参照「児童心理」2005No820)

 

 

”豪州・ペンリス市 第4回春ゆめの大自然交流合宿、行ってきま〜す!” 2007.3.23(fri)
いよいよ2年ぶりに、行ってきます。今回は参加者20名、リーダー、スタッフ7名と小数精鋭ですが、大きな成果を手土産に、27日深夜帰ってきます。皆さん、宜しく〜。